書評:X51.ORG THE ODYSSEY

X51.ORG THE ODYSSEY

X51.ORG THE ODYSSEY

「今夜明らかに!」というキャッチコピーに乗せられてブラウン管を食い入るように見つめたあの頃。『あなたの知らない世界』、を見るたびに「見るじゃなかった」と恐怖し後悔したあの頃。オカルトは心の栄養でした。しかし、世紀末の大予言も外れ、UFOも幽霊もすっかり廃れた。科学が大抵の現象を説明し、画像処理ソフトを使えば小学生でも心霊写真を模造できる現代。そういうものっていうのがテレビはおろか、書店に行っても申し訳程度にしょぼんと並び、親父の後姿の如き哀愁を漂わせる現在。そこでX51.ORGである。テレビや雑誌の信憑性が大いに疑われてしまっている今、このようなそもそも「信憑性の疑わしさ」が売りであるジャンルの命を、広いWebで繋いでみせたX51.ORG。情報化社会であることを逆手にとれば、疑わしいことにも信憑性というものがある筈で、世界各地の不思議な事件事故を必要に応じて科学的観点も注入したり、ともすれば目を覆いたくなるような事件事故でもユーモラスなカテゴライズで紹介するこのサイトは、言ってしまえば現代オカルトのルールでもあり、今更紹介するまでもないオカルト大聖堂である。ならばここにある疑わしさを強固なものにしてきたものがあるとしたら何だろう? 多種多様な情報を、それこそ世界中から五月雨式に受け止めているだけでは解らないはずだ、というところにおいての『X51.ORG THE ODYSSEY』である。というわけで本書は、そんなオカルトサイト管理者の著書。自ずとサイトのインパクトさながらの威勢のいいものを期待してしまいそうになるが、本職に比べるとまったりしていて、刺激的・或いは中毒的なものではない。どちらかというと、改めて足元を見つめなおそうじゃないか、というさざなみのような文書群であることを、X51.ORGのファンが読むなら予め了承している必要がある。幾度にわたる現地視察の記録。合わせて解説されるオカルトの歴史と各種偉人たちの見解。写真。コラム。決して煽ることもなく、目の前に広がる光景の描写、そして机上での再確認とを繰り返しながら、沢山の写真と注釈を駆使して、丁寧な口調で噛み砕いて語る教科書的な構成。さしづめ「日本の有名オカルトサイト更新停止、管理者は行方不明 → 各所でオカルト食べ歩き」といったところではなかろうか。だからそれが「本書で明らかに!」という鼻息の荒いものでは全くないし、例えエリア51で謎の諜報員に遠巻きに見張られようとも、UMAUMAであるところの歯切れの悪さ、に漂着せざるを得ないことには変わりがないのだけれども、さすがはあれだけのサイトを運営しているだけあって、膨大な知識が順序良く並べられることには、敬意というか畏怖すら感じる。少しだけillな観光気分に浸るもよし、オカルトの知識を育むのよし、写真を眺めて想いを確認するもよし、X51.ORGの成り立ちを感じるのもよしだ。
しかし終盤。"山場"は待っていた。舞台はエリア51→南米と移り変わり、チベットの高山へと辿り着き、さて山の麓でオカルトランチ♪と誰もが思いかけた時、ここで再び「今夜明らかに!」というあの懐かしい、薄暗く肌触りの悪い真実味が蘇る。イエティである。【性別:オス、主食:ヤギ、身長:2メートル、備考:煙を嫌う】初見で「たぶん熊でしょうね・・・。」と私でもいいたくなるペット感覚のUMA、イエティ。火星人や100年前の独裁者などに比べて何と現実的なことか・・・・。それをチャンスだと思ったかどうか、文面からは窺い知れないが、著者はこれまで溜めていた力を解放するように、足で、机上で、その存在に迫る。外観から実像へと、近づく。結果、浮かび上がってきたものは、なるほどこれは実に信憑性の疑わしさの証明というべきものであった(読んでください)。そもそもの発端、人間の性質、西洋調査団の齎したもの、歴史、地理、UMAとそれに群がる興味本位の人々という現実、なんとなく想像がついていたものと、その逆のもの。それまでの章では、独立して静的に説明されてきたものがここでは一点に集合していき、愚行と真実と虚偽が糸を引っ張り合って、疑うことと検証することと騙されることが調合され、好奇心と歴史と現実に力を加え、何が真実を歪曲し、人々を不安と想像の渦に取り込み、結果的に如何なる形象を以ってオカルトたらしめているか、という最もデリケートな部分を、見事に著者は浮き彫りにしている。食べ歩きではない、五月雨式でもない、怪しく複雑なオカルトスペクタクルを見事に説明付けて、この手の話の普遍のモデルを明らかにしているようで、ちょっとしたカタルシスすら感じる。X51.ORG自体は謎を謎のままにする、或いは異なる論点に移し変えるのが常だが、この点に関してはサイト云々を抜きに、真実を知りたいという我々の心理を充分に満足させてくれるもの、オカルトファンの心にも大きな答えのようでそうではない何かを投げ掛けるものでもあった。・・・と、すっかり心を落ち着かせて読み進めてしまっていた私は、すっかり心を躍らせながら思ったのである。さしづめ「日本のオカルトサイト管理者、エリア51で問題にされず → ヒマラヤのイエティで挽回」といったところである。ここで私見になるが、改めて振り返ると、オカルトとは大きいものなのだと感じさせられる。このようなカラクリが晒されて、さすれば必ず、『…だったら』とオカルトファンは考える筈だ。だったら、UFOやナチスはどうなっちゃうんだろう? どれだけ壮大なスペクタクルが待ち受けているのだろう? その成り行きで利害を被るのはチベット高山の村とはわけが違う。『登場人物』は、「アメリカ政府」だったり「世界の歴史」だったり、或いは「宇宙人」「宇宙全体」だったりするわけで、これはもう果てがない。シンプルであるために一冊の本で帰結できたこのイエティについてですら、更に奥で糸を引いている者もいる筈なのである。真実に限りはない。だとすると、その道を著者のように突き進む行為こそ、オカルトなのかもしれない。嗚呼! オカルトっていいなヽ(´ー`)ノ。それは海のように広く、オカルトがオカルトである限り、真相は逆説に満ちているはずなのだ。少なくともアメリカ大統領が宇宙人について大々的な発表を行わない限り、オカルトのロマンはそれぞれの形象で以って、私たちの頭を捉え続け、X51.ORGは廃れることなく続くのである。ある意味、科学・哲学の範疇である。そこまで来たら、じゃあ一体どこまでがオカルトなのか?そんな風にも思ってしまうが、世界中を跳び回りながら、信じているわけでも信じていないわけでもない、と言明する著者のオカルト観は、その線引きこそ自由なのだということも教えてくれている。オカルトとは旅であり、自らすすんで騙されることであり、敢えて疑ってみることであり、真実への道のようなものあり、そして我々の心の墨にある欺瞞や期待、刺激を求める心理そのものなのかもしれない。
というわけで、落ち着いて読むなら、特に私のようなオカルト初級〜中級程度の人にはお勧めの本です。加えて言うなら、「矢追純一」「ノビー」というキラーワードが、本文と、やたら多量に記載されている注釈の中で念仏のように連呼されている点などが何より素敵である。