Iのケンカ野球試論

sleephead2007-12-09


野球日本代表はいい試合だった。非国民ながら、野球ファンなのでさすがに見ました。とはいえ私はちょっとA選手の件もあって、DNAばりにねじれた心境での見る羽目でしたがorz。。でもどうなんだろうか。勝ったのはいいけど、でも個人的になーんか釈然としないのはA選手のためだけではない筈。喜び様、その後のあれこれ、そして今の日本プロ野球のことを考えるにつけ。むー


さて、


I編集長という偉人がいた。名を井上義啓という。安部公房の脳みそをマイクタイソンに移植して格闘技語ってるようなグレイト前衛ジジイである。残念ながら昨年末の今頃72歳で逝去されたが、プロレス編集者として猪木を追いかけ、MMAが出るといち早く飛び付き、死ぬ間際まで最強の想像力と言語感覚を以って最前線であり続け、如何なる哲学言語より重い「殺し」を提唱し、「プロレスは底が丸見えの底なし沼」と定義した哲人、私がこの世とあの世で最も尊敬する男である。Tシャツまで出て、よく売れた(私も買った)。この70の爺は、ハッスルがタレントをリングに上げることですったもんだ言われてた時期に「ハッスルは八代亜紀を出すべきですよ!」と言い、まだプロレスラーがMMA市場で結構価値があった時分でも「プロレスなんてもう、水戸黄門みたいに300人ぐらいしか見ませんよ!」と言い切った。i-modeや裏原文化のこともよぉーく知っており、プーチン大統領のことも早くから評価していた。妄想と真実を繋ぎ合わせてバズーカに乗せて飛ばす彼の放言は、私にとっては事実を超える絶対の存在であった。言わば日本のプロレス格闘技を、日本のプロレス格闘技にした人であった。だから彼が死んだ時、活字スポーツの死を感じたし、「せめてこれからは自分が、I的価値観で物事を見ていかなくてはいけない!」と堅く誓い、勝手に「中野のバカ」を襲名したのである。何故I編集長なのかというと、年末のPRIDEである。Iが晩年最も心酔し、癌で余命が告げられて尚、「俺のPRIDEの夢は終わってないからね!」と言ったPRIDEである。


残念ながら、


格闘技界も野球界と同じような力関係が固まりつつある、スポーツ大国アメリカで強力な地盤を固めたUFCが業界全体を牛耳ろうとしている。これが強いんだ。グローバルスタンダード。格闘技だけは日本がメジャーだったのに、いつのまにかメジャーリーグにすら肉薄、世界の中心にどっかと座っていた。曰く、UFCがベスト、UFC以外は全てJOKE、世界のMMAファンのドリームマッチを実現するのはUFCだけ! 向かうところ敵無し、拡大の一途、確かに手がつけられない。ドラゴンボールで言ったらフリーザである。科学技術・組織力・合理性・生態、どれを取っても最強のフリーザ。セルなんざ、所詮架空の架空、ガチでやったら負けるに決まっている。超サイヤ人なんてのもあれは『週刊少年ジャンプ』だからこそああやってびゃあああっとやってるだけであって、最高の力と最強の思想を持っているのは間違いなくフリーザである。つまり今、MLBUFCは星をバンバン滅ぼす惑星フリーザよろしく、飛ぶ鳥をバシバシ落としながら、世界制覇の道を独走しているわけだ。結局サイヤ人のお猿さんがちょこちょこ抵抗したって、フリーザにとっては「痛かったぞ」程度過ぎず、あえなく撃沈。だって最強だから。宇宙の覇者だから。世界はフリーザ式=アメリカ式の手の中にあるのだ。


野球に話を戻して、


力学・複雑系・同期の法則によれば、フリーザ>悟空>べジータ、即ちUFC>PRIDE>NOAHであり、MLB>NPB>広島、この三層構造の意味するところは力>熱>味、支配>正義>人情、あるいは科学>哲学>文学である。というかむしろ、必ずそうでなければならない、と出ている。高潔にして不遇の戦士べジータ=広島カープ=NOAH王道プロレス…のことはここでは置いておくとして、、熱いハートで対抗する地球のヒーロー、格闘技でのPRIDE=孫悟空にあたるのは、野球でいったら本当にNPBなんだろうか? なんか、それはないな。じゃあ巨人軍、或いは阪神タイガースだろうか。んー、どうでしょう。まず正義とは何か? それは熱があり、ライバルを倒してはヘッドハンティングし、切磋琢磨しながら精鋭の一団を造り上げ、勇気を持って巨大な敵に向かっていく。それがヒーロー=孫悟空の道である。ここまで、PRIDEはそうであった。プロレスの熱を継承し、MMAの血を飲み込み、限界は何処だ?と進んでいった。だから結果として、フリーザに真っ向から挑み、殺された。しかし野球界の孫悟空はなんだか微妙だ。何がしたいのかよくわからない。例えばこのFA争奪戦。マネーゲームで選手集めておきながら、メジャーが出てくるとあっさり早々と撤退宣言。ポスティングで選手を売っておいて、メジャーばかり扱うなとマスコミにブーブー言う醜態。自分等はメジャーへの階段を作ってまっすぐ丁寧に整備してお掃除までしているのに。グライシンガーの件なんて目も当てられない。そりゃボビーはキレますよ。つまり負けは負けでも格闘技界の孫悟空は戦死。野球界の孫悟空フリーザの御機嫌伺い、どちらかというとザーボンさんとドドリアさんである。うわー、いけてないわ。マネーゲームであっさり負けるのは、祖国のテメーが魅力と個性を持たないからだ。金があるんだったらボンズやR.ジョンソン獲れば、メディアも振り向くかもなのに。選手が育たなくなってから生え抜きだ愛だ言っていては、テレビ中継も減ってドラフトが平等化したこれからは、あっという間に廃れてしまう。今こそ、こんな時代だからこそ、巨人はスターを集めてひとつに纏めて勝つ、超(スーパー)ど真ん中の野球をやるべきだと思うんだけどな。現状は、阪神も巨人も孫悟空ちゃう。高田延彦はかつて三沢対小橋をして「迷いがないのが素晴らしい」と言ったものだが、向く方向によってツラの色を変える野球の孫悟空がしているのは、そもそも闘いでもなんでもない。こうなっていてはアメリカは、国際試合で負けたからってビクともしない。日本は闘う前から勝つ可能性も無くしている。然してフリーザは、変身するまでもなくドドリアザーボン従えて闊歩できるのである。


そこで今一度PRIDEである。


去年から今年のことを振り返ると、いきなり宇宙の果てからフリーザが現れたところから始まる。格闘大国日本だけでの話だったのに、アメリカ市場が大拡大 → PRIDE慌てて海外進出 → 成功するも市場の逆転は止まらず → 主力選手移籍 → 解体。。。ベガス(=ナメック星)乗り込んで興行打ったりと、抵抗はしたが為す術が無かった。買収された挙句、社員全員解雇という目にあって消滅させられたPRIDE。どんだけ〜っていう散りっぷり。これは孫悟空というか、クリリンである。負けた。死んだ。終わった。バクハツした。力の差は歴然としており、覆る見込みもない。そして日本プロ格の終戦を見るまいとしたかのように、Iも死んだ。PRIDE DREAMは終わった? アメリカ主導の新MMA社会の始まり?


 否


PRIDEはフリーザの軍門には下らなかった。諸々の細かい事情はあれど、マッカーサーになろうとしたアメリカ人=ダナ・ホワイトの思い通りには進まなかった。全てが中途半端な形に帰結せざるを得なかった。結局、UFCは日本でのテレビ中継を失い、興行も打てず、ファンの支持も得られなかった。少なくとも、どれだけの金が消えたかは知らないが、2007年の日本市場侵略は失敗した。もちろん野球と格闘技では背景とした事情は大いに違うが、格闘技において日本は、アメリカにNOと言った。そしてこの大晦日である。解雇されたPRIDEスタッフがロシア人と手を組んで、アメリカ人に買収させられた筈の「PRIDE」を事実上蘇らせてのビックマッチを決行。しかもUFCと契約しかけた名実共に世界最強の男=ヒョードルを大晦日に引っ張り出すという、壮大なおまけつきだ。これにはたまげた。九回表、ツーアウトからの同点スリーランホームランである。「PRIDE」がやったことはわかりやすい。FEGもDEEPも呼び立てて大連立を呼びかけ、集められる力を全て結集しようとしている。これがホントの元気玉である。超サイヤ人はともかく「クリリンのことかああああああ!」と髪を逆立てたのである。数十億の資本を誇る連中を、リストラされた者達が出し抜いた、私がビルゲイツにゲームで勝つみたいなものである。見事、その面に糞を縫ってやったというわけだ。


とはいえフリーザ元気玉でも死にませんでしたけど。。


さてさて。昔々、世の中がもっと整理されず混沌としていた時分には、様々な波乱に満ちていた。力道山にせよ、A.猪木にせよ、モハメドアリにせよ、「個人」が、とんでもない奇跡を起こすことが出来た。今、とは随分違う時代である。かつて「アントニオ猪木なら何をやっても許されるのか?」という最も複雑な、そして活字プロレスの聖杯たる名言を発した前田日明は今年「PRIDE、ざまあみろ」と言った。単純な言い回しは日明兄さんらしくない、と思ったものだったが、よくよく考えるとこれも理に適っている。構造化された社会で逆転は難しい。強いものはガチガチになる一方だ。だとしたら構造的強者に対して出来ること、それは顔に糞を塗ってやるしかない。そう、これからはざまあみろ時代である。そもそも整理された社会が悪いわけでは全然ない。実際にはメジャーで日本人選手が活躍することで、人民は野球に目を向けることになる。FAでA選手を獲られようが、阪神ファンは広島に大挙して詰め掛けて財政を助けている。それはそれでいいのだ。しかし、その不満や怒りを相手の目を見て言えないのでは日本野球界は情けなすぎる。青い目をしたボビー以外誰一人「メジャーがなんだ?」と言えないのはどうだろうか。NPBは死んだ魚の集団なのか。糞を塗らないと心に火はつかないし、差別化を図れない。こないだの小橋にしても、格闘技? 癌? What? 俺がやりたいのはプロレスだ、というのをビンビンに示したから素晴らしかったのだ。NOAHヲタは燃えた。PRIDEヲタも燃えた。NPBも小橋にならなければならない。やるならやる、やらないならやらない。迷わずに突き進まなくてはならない。巨人軍は福留もグライシンガーもボンズもラミレスもダルビッシュも獲って、「見ろよこの軍団を。豚肉とドラッグに漬けたメジャーの先生方よりもずっと強いぜ。」と宣言し、ヤンキースタジアムでもフェンウェイ・パークでもアポ無しで乗り込んでいくべきなのである。汚い手を使ってもいいのである。その時こそ、日本の野球ファンは燃える。選手も燃える。国際試合はただの祭り。ナイスゲームだったね野球はいいよね、とか言ってまたこれまでと同じことを続けていくためのものでしかない。NPBはへたれな姿勢への批判を、祭りの熱で遠ざけようとしている。Iに言わせれば「日本の野球には(新日本プロレスばりに)『殺し』が無い」となる。


つまり


競技とは、まず先にケンカである。その後にこそ、リスペクトもあるというもの。地獄甲子園において校長は言った。「確かにお前たちの野球の実力は日本一じゃ。しかし今日の相手は野球がうまいだけじゃ勝てんのじゃよ。お前たちの代わりに闘ってくれるのは、ケンカ野球戦士じゃ!」そうじゃ。そうなのじゃ。スポーツマンシップもヒップもないのじゃ。「ケンカ」と「殺し」が必要なんじゃ。件の試合の視聴率は良かったと聞く。ならば、オリンピックをまずは利用するべきである。日本人がテレビにかじりついてる時からこそ、高らかに宣戦布告するべきだ。どうやって? そんなの決まってるだろ! きっとIなら、もしIが野球について語っていたならこういうに違いない。


「紳士協定なんか俺だって破りますよ! 言うちゃ悪いけども、そんな行儀良くやってどうにか金メダル取らせて頂きましたみたいなことやったって、その時だけビヤーっと盛り上がるだけであってね、みんな明日には忘れとるからね。そうじゃないことを大マジにやりたいんだったら、オリンピック決勝でアメリカにコールド勝ちしなきゃ嘘ですよ! NPBソリアーノ帰化させるべきだ! 松坂マネー全部渡して相手キャッチャー買収するべきだ(ドン、と机を叩く)! 乱闘やったっていいじゃねえか! 乱闘でも八百長でもやっとればこそ、後になって、あの時はああでしたこうでした、と語られることにもなるんだよな! 怪我さしてもいいのかって? そんなのいいに決まってるだろ!!!」



殺し 活字プロレスの哲人 井上義啓 追悼本 (Kamipro Books)

殺し 活字プロレスの哲人 井上義啓 追悼本 (Kamipro Books)

書評:X51.ORG THE ODYSSEY

X51.ORG THE ODYSSEY

X51.ORG THE ODYSSEY

「今夜明らかに!」というキャッチコピーに乗せられてブラウン管を食い入るように見つめたあの頃。『あなたの知らない世界』、を見るたびに「見るじゃなかった」と恐怖し後悔したあの頃。オカルトは心の栄養でした。しかし、世紀末の大予言も外れ、UFOも幽霊もすっかり廃れた。科学が大抵の現象を説明し、画像処理ソフトを使えば小学生でも心霊写真を模造できる現代。そういうものっていうのがテレビはおろか、書店に行っても申し訳程度にしょぼんと並び、親父の後姿の如き哀愁を漂わせる現在。そこでX51.ORGである。テレビや雑誌の信憑性が大いに疑われてしまっている今、このようなそもそも「信憑性の疑わしさ」が売りであるジャンルの命を、広いWebで繋いでみせたX51.ORG。情報化社会であることを逆手にとれば、疑わしいことにも信憑性というものがある筈で、世界各地の不思議な事件事故を必要に応じて科学的観点も注入したり、ともすれば目を覆いたくなるような事件事故でもユーモラスなカテゴライズで紹介するこのサイトは、言ってしまえば現代オカルトのルールでもあり、今更紹介するまでもないオカルト大聖堂である。ならばここにある疑わしさを強固なものにしてきたものがあるとしたら何だろう? 多種多様な情報を、それこそ世界中から五月雨式に受け止めているだけでは解らないはずだ、というところにおいての『X51.ORG THE ODYSSEY』である。というわけで本書は、そんなオカルトサイト管理者の著書。自ずとサイトのインパクトさながらの威勢のいいものを期待してしまいそうになるが、本職に比べるとまったりしていて、刺激的・或いは中毒的なものではない。どちらかというと、改めて足元を見つめなおそうじゃないか、というさざなみのような文書群であることを、X51.ORGのファンが読むなら予め了承している必要がある。幾度にわたる現地視察の記録。合わせて解説されるオカルトの歴史と各種偉人たちの見解。写真。コラム。決して煽ることもなく、目の前に広がる光景の描写、そして机上での再確認とを繰り返しながら、沢山の写真と注釈を駆使して、丁寧な口調で噛み砕いて語る教科書的な構成。さしづめ「日本の有名オカルトサイト更新停止、管理者は行方不明 → 各所でオカルト食べ歩き」といったところではなかろうか。だからそれが「本書で明らかに!」という鼻息の荒いものでは全くないし、例えエリア51で謎の諜報員に遠巻きに見張られようとも、UMAUMAであるところの歯切れの悪さ、に漂着せざるを得ないことには変わりがないのだけれども、さすがはあれだけのサイトを運営しているだけあって、膨大な知識が順序良く並べられることには、敬意というか畏怖すら感じる。少しだけillな観光気分に浸るもよし、オカルトの知識を育むのよし、写真を眺めて想いを確認するもよし、X51.ORGの成り立ちを感じるのもよしだ。
しかし終盤。"山場"は待っていた。舞台はエリア51→南米と移り変わり、チベットの高山へと辿り着き、さて山の麓でオカルトランチ♪と誰もが思いかけた時、ここで再び「今夜明らかに!」というあの懐かしい、薄暗く肌触りの悪い真実味が蘇る。イエティである。【性別:オス、主食:ヤギ、身長:2メートル、備考:煙を嫌う】初見で「たぶん熊でしょうね・・・。」と私でもいいたくなるペット感覚のUMA、イエティ。火星人や100年前の独裁者などに比べて何と現実的なことか・・・・。それをチャンスだと思ったかどうか、文面からは窺い知れないが、著者はこれまで溜めていた力を解放するように、足で、机上で、その存在に迫る。外観から実像へと、近づく。結果、浮かび上がってきたものは、なるほどこれは実に信憑性の疑わしさの証明というべきものであった(読んでください)。そもそもの発端、人間の性質、西洋調査団の齎したもの、歴史、地理、UMAとそれに群がる興味本位の人々という現実、なんとなく想像がついていたものと、その逆のもの。それまでの章では、独立して静的に説明されてきたものがここでは一点に集合していき、愚行と真実と虚偽が糸を引っ張り合って、疑うことと検証することと騙されることが調合され、好奇心と歴史と現実に力を加え、何が真実を歪曲し、人々を不安と想像の渦に取り込み、結果的に如何なる形象を以ってオカルトたらしめているか、という最もデリケートな部分を、見事に著者は浮き彫りにしている。食べ歩きではない、五月雨式でもない、怪しく複雑なオカルトスペクタクルを見事に説明付けて、この手の話の普遍のモデルを明らかにしているようで、ちょっとしたカタルシスすら感じる。X51.ORG自体は謎を謎のままにする、或いは異なる論点に移し変えるのが常だが、この点に関してはサイト云々を抜きに、真実を知りたいという我々の心理を充分に満足させてくれるもの、オカルトファンの心にも大きな答えのようでそうではない何かを投げ掛けるものでもあった。・・・と、すっかり心を落ち着かせて読み進めてしまっていた私は、すっかり心を躍らせながら思ったのである。さしづめ「日本のオカルトサイト管理者、エリア51で問題にされず → ヒマラヤのイエティで挽回」といったところである。ここで私見になるが、改めて振り返ると、オカルトとは大きいものなのだと感じさせられる。このようなカラクリが晒されて、さすれば必ず、『…だったら』とオカルトファンは考える筈だ。だったら、UFOやナチスはどうなっちゃうんだろう? どれだけ壮大なスペクタクルが待ち受けているのだろう? その成り行きで利害を被るのはチベット高山の村とはわけが違う。『登場人物』は、「アメリカ政府」だったり「世界の歴史」だったり、或いは「宇宙人」「宇宙全体」だったりするわけで、これはもう果てがない。シンプルであるために一冊の本で帰結できたこのイエティについてですら、更に奥で糸を引いている者もいる筈なのである。真実に限りはない。だとすると、その道を著者のように突き進む行為こそ、オカルトなのかもしれない。嗚呼! オカルトっていいなヽ(´ー`)ノ。それは海のように広く、オカルトがオカルトである限り、真相は逆説に満ちているはずなのだ。少なくともアメリカ大統領が宇宙人について大々的な発表を行わない限り、オカルトのロマンはそれぞれの形象で以って、私たちの頭を捉え続け、X51.ORGは廃れることなく続くのである。ある意味、科学・哲学の範疇である。そこまで来たら、じゃあ一体どこまでがオカルトなのか?そんな風にも思ってしまうが、世界中を跳び回りながら、信じているわけでも信じていないわけでもない、と言明する著者のオカルト観は、その線引きこそ自由なのだということも教えてくれている。オカルトとは旅であり、自らすすんで騙されることであり、敢えて疑ってみることであり、真実への道のようなものあり、そして我々の心の墨にある欺瞞や期待、刺激を求める心理そのものなのかもしれない。
というわけで、落ち着いて読むなら、特に私のようなオカルト初級〜中級程度の人にはお勧めの本です。加えて言うなら、「矢追純一」「ノビー」というキラーワードが、本文と、やたら多量に記載されている注釈の中で念仏のように連呼されている点などが何より素敵である。

いてつく貴重な時間

sleephead2007-10-28



中学生の運転する車は必ず電柱に激突、中国の重犯罪者は大抵死刑。…おっと。おっと、これはどうもどうも。『あなたも危ない?鬱病チェックシート』みたいなものを入力すると未だ漏れなく「鬱」と診断される俺ですw。どうもです。お久しぶりです。秋ですね。秋ですよね。節度ある暮らしをしていたせいか、私の体調もたいぶ良くなって参りました。いいえ。だいぶというか、時には結構絶好調でありまして、先日などは就寝するための消灯をした際、気分が妙に高揚してしまって、危うく大声でPUFFYを独唱しようとしたところでした。あぶねー
猪のような夏が過ぎ去り、過ごしやすい秋の季節が訪れ、朝晩の冷え込みがまだ心地良い程度に冬の兆しを感じさせる今日この頃ですが、皆様におかれましてはさぞかし華やかな時間を過ごされていたに違いないと睨んでいますが、羨ましくなくなくなくないのですが、私はというと…、石版を集めておりました。ドラゴンクエストⅦであります。神話の勉強をする間、ふと思いついたのです。日本人にとって最も身近な神話はドラクエでしょ、と。そういうわけで久しぶりにコントローラを握りました。ぼうけんのしょを作りました。失われた世界を再生する冒険です。実際にやってみると、やはりこれはとっても素晴らしいのです。人々の愛と欺瞞、神々の知恵、悪の強大な力。時間と運命のカラクリを巧妙に演出し、何とも心に引っ掛かる寓話の寓話であるところの醍醐味。ドラクエらしさ爆発です^^。エキストラにまで設定されたキレのある台詞。素晴らしいですよね。魔王への長い道のりの間、実にたくさんの泣き笑い、真実への手綱というべきものをみたような気がしました。ゲーム性抜きにしても名著の域だと思います。ほりいうちゅうじん・・・いや、ほりいゆうじは凄い。天才です。ドラクエは最高です。勉強になります。やってよかったです。石版集めも、捨てたものではありません。
さてさて、そのようにして感心しながら私は経験を積み、長い長いシナリオを進めて遂に、残すは魔王のみという段になりました。人々は言います。早く魔王を倒してくれ、と。そうはいってもこれはあくまでゲーム。魔王が攻めてくるわけではありません。すぐに魔王とは闘わず、レベルアップに取り組みました。魔王を完封するためです。私は仙水忍の名言の如く、魔王に完勝することが、RPGをやる上での楽しみなのです。その為には労力は惜しみません。めんどくさくても負けません。攻略サイトで見たレベル上げ地点で「くちぶえ」ふいて闘いの連続。呼び寄せられるスライム相手に「岩石落とし」「岩石落とし」。頻繁に現れるはぐれメタルキングスライム。地味な作業ですが、これも魔王を平伏すくらいに圧倒する為、レベルを上げる為。強いては自分の為!・・・と、私は自分を信じ、技を磨きました。どれだけのホイミスライムを倒したことでしょうか。武器は揃いました。技も覚えました。カジノにも行きました。メダルだって集めました。全てがうまくいきました。敵対するものなどいないくらい、私は強くなりました。しかし、いよいよ魔王討伐が頭をチラつくようになったある時、私は雨のような脱力に襲われました。なんなんでしょう、あれは。強くなっていく満足感、決戦が近いという緊張感、それとは意を異にする感覚です。会社から帰って寝るまでの限られた時間にいそいそと進めていたこれまでには、気付くことのなかった感覚です。魔王って、、、なんだ? それを倒す必要は、あるんだろうか? 世界を救うってどういうことだ? だって精霊によって全ての町は復活していて、人々は魔王の脅威に震えていますが、空は明るく、さしあたってトラブルもありません。このうえ事を起こす必要は、あるんでしょうか。先にも述べましたが、魔王は攻めてはこないのです。いや、そもそも平和なフィッシュベルの町から出る必要すら無かったのでは? あれ? 私はこれまでの道程を遡りました。ドラクエそのもの、そしてそれをプレイしてきた私のことも。。ここまで全てのシナリオが逆説的で痛切だったドラクエ。考えてみれば、『魔王を倒す』という最大の命題にのみ、幼稚さが残されています。魔王は本当に悪い奴だろうか。ならば、レベルアップの為だけにHPがたった3しかないスライムを何千匹も殺し続ける、時にはイオナズンや「死の踊り」すら使う私は? そこに行き当たると、この拡げられた世界が歪んで見え始めました。レベル上げも急につまらなくなってきました。相手はコンピュータなら自分もコンピュータ。そしてそれでもただひたすら、取り憑かれたように連日レベル上げをする私。殺し続ける私。何の為、ただ自分の為だけのこと? 魔王の為? ゲームなのに・・・・・・? そう、私が明確に感じたのは他でもない「虚しさ」だったのでした…
もちろん戦うほどにレヴェルは、上がります。強くなれます。ゲームですから。習得した技は幾重にもなりました。どんなやつでもいちころです。金も余るくらいに増えました。なんでも買えます。やることが山積だったころはそういう積み重ねが幸せでした。しかし、次々と現れる敵や人、新しい町での宝荒らしから解放された私は、荒涼とした3Dポリゴンに向けて、今更ながら考えることになったのです。初めて自由のようなものを手にして省みる内面、そこに向けられた空虚さ。なんなんでしょうか、これは。。何やら薄ら寒いものを感じます。あるのはただ、魔王を倒すことで全てを失うかもしれない自分自身への不安なのかもしれません。後戻りを出来ない状況を固めてしまった自分自身への嫌悪かもしれません。皮肉なものです。自ら積み上げた豊かさが真実を映し出し、闘いの勇者として歩んできた道を薄暗く照らすことになるなんて。神話研究家の河合隼雄氏が発した疑問、「何故、物質的安全と豊かさを手にした私達日本人が、辛いと感じたり、凶悪な事件を起こしたり、自殺したりするのだろうか?」嗚呼。。まさに私のこの状況こそが、現代人の磨り減った心の状態そのものであるかのように感じました。疑問の答えをみずからのぼうけんのしょにも見たような気がしたのです。そもそも私自身、ゲームの電源つけてスライム虐めてていい状況だったでしょうか。違います。じゃあ魔王とは? 気付けばレベルは50を超え、55を超え、どう考えても闘ったら楽勝です。この状態で人畜無害の魔王を倒しに行くということもまた、虐めにも・悪そのものにも似ています。スライムを片手間に殺すのと大して変わらないのです。世界を壊すことと変わらんのです。本当にこれが、私が本心から望んだ状況だったでしょうか。こんなことの為にドラクエをやったんでしょうか。魔王と闘う意味があるとしても、その死闘における切磋琢磨こそ、目的であるのではないでしょうか? その為に力と技は、あったのではないでしょうか? スライムと助け合うことは、中盤以降のドラクエの大きなテーマだった筈なのに。そして何より重要なことに、私はこの状況に気付いたところで今更何一つ変えることは出来なくなってしまっているのです。奢り、攻略サイトを見るというズルまでして、力を落とすことも出来ません。ここまでやって、魔王と闘わないわけにもいきません。楽園を追われた我らが始祖アダムとイヴ、命を繋ぎ、技術を高めて数千年、辿り着いたのはこんなヘドロの沼みたいな場所だったのでしょうか? ならばゲームをする自分自身の目標とは? 情けないことです。貴重な時間を費やして身を削られて、魔王どころか、自分が何なのかもわからなくなってしまいました。魔王への長い道のり、それをダラダラと思い出したりしながら思うのです。魔王を倒すと平和になるなんていう欺瞞に操られる私達。そうでもないと津波のような「自由」に溺れてしまう私達。現実をほったらかして、攻略サイト片手に何かしたような気分で一時だけの充足を得る私達。ああ無情。積み重ねた貴重な時間ごと、魔王と闘わずして「いてつく波動」で吹き飛ばされた気分です。せめて、さっさと倒して終えるべきだったと考えます。現実に、対処すべき問題は山積みなんですから。。なにかが間違っていたんです、或いは全てが。労力をつぎ込み、これでもかと鍛錬することは、人が、その内側に持ち合わせる素晴らしい力に違いないのだけれども、ただ闇雲に力をつけようとする自分こそ、あぶねーのです。神話から真実へ迫ろうとする道すがら、結局私がしていたのは暗がりの中でPUFFYを独唱するのと同じ事だったのです。いみじくもストーリーの中での復活させられた神は、魔王が演じたものでした。偽りの神にかまける人民の台詞を俯瞰したつもりでいた私も、実は彼らのすぐ近くの外縁に縛り付けられていただけのことではないでしょうか。たかがゲーム、そう言いながら、想い通りに弄ばれてしまったいたのではないでしょうか。ほりいうちゅ・・・いや、ほりいゆうじ氏は、主人公が解き明かすべき最後の欺瞞を、かくして魔王に象徴させていたのではないでしょうか? それこそが、ドラクエⅦから受け取れる最大にして禁断の摂理だったのではないでしょうか? ならば私は何を費やし、何を失い、一体何を得たのでしょうか。。石版ばかり集めていては、いけないものかもしれません。よくないのかもしれません。
ゲームはゲーム。プレイする自分自身の問題を解決するのは魔王でもPUFFYでもなければ、当然ぱふぱふでもない筈です。しかし、一旦のめり込んだら最後、核を持ってしまった間抜けな人類のように、私にもまた、自分を止めることが出来ません。原罪を知りながら罪を犯し、愛を訴える欲深き人間の一部である私は、どうしていけばいいんでしょうか? 勉強と自らにも偽った悪趣味な遊びの為に貴重な時間をこれからも無駄にしていくんでしょうか? 誰か、私の狂気を生き延びる道を教えて頂きたいものです。この年になって、虚構の世界で道を失っておるというわけなのです。これではなにがなんだか解りません。前が見えません。どうしていいのか解らんのです…!



 限りある 貴重な時間に メタル斬り


 でも魔王を倒す? ・・・・・・ファイナルアンサー?



 メラゾーマ 撃った先には マホカンタ



 ゲームと人生 さあどっち!?





 油断した ぼうけんのしょまで 凍てついた
     歌って踊って ぱふぱふぱふ



はぁ〜すいません(´`)
なんかもう自暴自棄なって詠んじゃってましたー


そりでは。。

.

チームの足を引っ張る選手を応援してくれてありがとうございます。

怪我する前は“自分がどこまで成長できるか”と考えると、毎日が楽しかった。神様から与えられた素質、天性だけで野球をやっていたのが、全て崩れ、訳が分からなくなってしまったんです


あれは中学校三年の冬。受験シーズン。その頃までは勉強しなくともいい成績が取れたので、連日IHという友人と帰り道にベジータと悟空はどっちが強いかを議論しては、花屋の息子宅に押しかけてファミスタをやる、というのが私の日課であった。当時野球に全然興味が無くなっていた私はとりあえず強い巨人でプレーするのだが、広島ファンであったIHは負けても負けてもカープを選択した。何度も言った、「前田と江藤は凄い!特に前田は走攻守揃った天才だ」というのは負け惜しみにしかあの時の私には聞こえなかった。確かに前田と江藤にはそこそこ撃たれた気はする。走られた気も。しかしIHはファミスタ自体が私より下手だった。彼の操る赤ヘル軍団を、外のボールの出し入れでバッタバッタと三振に斬りながら、私は言ったのだった。「広島カープなんて、、、、ダサッwww」。ショボイチームじゃないか。日本人ばっかだし。もう優勝は永久にないよw? カープなんか応援したっていいことないぞ、要するにお前は負け組で、つまり本気を出せばベジータが悟空を倒せるに決まってる、と。。

何の因果か、もしかして天罰だったのか、そんな日々から二年程経過した梅雨の蒸し暑いある日。高校二年生の私は森の中でUFOに拉致されてしまい、翌日から突如として広島カープファンになった。広島カープ・・・ってことは前田と江藤か。そんな風に中学の親友の姿と言葉を少し懐かしく思い出した私の前に「天才前田」はいなかった。拉致される直前に、彼はアキレス腱断裂の大怪我を追っていたのだ。その辺りから現在に至るまで、10年連続Bクラスという悲惨な道を歩み始めるカープなのだが、宇宙人には逆らえず、私は結局そのまま、カープを観ていくことになった。だから私にとっての野球選手前田智徳というのは、もう試合に出ることもなく引退するかもしれない幻の強打者であり、こういうのもアレだが、皮肉にも怪我をすることから独り歩きを始めてしまった「前田天才打者伝説」のせいもあって少し非現実的な存在、なのでもあったる。以来、火星人の思惑通り、13年間ひと時も揺れることなく広島カープを観てきた私にとっての「現実」は、前田智徳という選手は三拍子揃った選手、ではなく、常に足を引き摺りながらプレーする痛々しく変わり者の好打者だった。そして(走塁・守備はハッキリ言ってしまえばプロとして平均以下のものになってしまっていたものの)足を引き摺りながらも素晴らしい打撃を続ける彼を、痛々しい姿ながらもグラウンドに立つ彼を愛した。それは負けても負けても目を輝かせて語るIHの「前田」とは違う前田であるのも解っていたが。ともあれ前田は強打者でも人気選手でもあり続けたし、私のカープ生活の中においては常に、前田の打撃が観れる試合はそう長く続かないのだから大事にしよう。そんな風なことを何処かで前提としながら、私は野球を、カープを観てきたのだった。まさかあれから十数年後になっても打席に守備に、あの足のまま立ち続けているなんて微塵も予想せずに。

日刊

元々、気難しい職人タイプの性格でありイチローも憧れた完璧主義者であった前田の野球は、怪我をすることで更に狭まった。調子が悪い時は、テレビで見ていても解るぐらい気の抜けた姿で打席に立ったし、折角勝ってもヒーローインタなどは大抵は拒否した。マウンドとバッターボックスだけの間、ピッチャーが放るボールの回転と自分の練り上げた打撃の技術だけの、ギスギスした野球だった。バガボンド序盤の武蔵のようであり、リアルの戸川清春みたいだった。何かが少しずつ変わり始めたように感じたのはいつからだったろうか。「長く野球がしたい」「元気な姿を見せて、ファンに恩返しがしたい」そんなことをよく口にするようになったのは、ここ3〜4年だったように記憶している。12年間のあれこれを簡単にまとめることは出来ないが、捕えたと思った打球が力なく外野手のグラブに収まるのを見て泣いた日、右足も切れてしまえばいいのにと吐き捨てるように言った日、実際に右足も痛め惨めに「けんけん」しながら三塁ベースにしがみついた日、その中で打ったひとつひとつのヒット、涙の復活ホームラン。青い目の監督に突然任された「キャプテン」。紆余曲折を経て、少しずつ、彼の言葉は変わりはじめていた。ヒーローインタで奇しくもアナウンサーが言ったように、広いグラウンドとベンチをグルッと見渡せる、剣豪のような男に成長しはじめていた。自分、だけではなくチーム。その前にファンありき。チームとファンを大事にするようになった彼に答えるように、その試合は奇跡的な試合になった。七回の裏のツーアウトから四打席目も凡退。首位を争う中日にリードを許す展開。八回九回を抑えられたら前田まで来ない。八回に逆転したら九回裏の攻撃は無い。五打席目が回ってくる確立は低かった。彼の野球人生を表すかのような苦しい内容。しかし八回の裏、これまで繋がらなかった広島打線が奇跡的に繋がった。新井の四球は痺れた。そして前田は打った。こういうことがあるから、こういう男がいるから、やっぱりスポーツを観るのはやめられない。

2000本目の瞬間

解説の大下は自嘲気味に「ポテンヒットになるんじゃないか」と言っていたが、彼の道程が花火のように咲いたライト線への痺れるライナー。ファンが最もよく観てきた弾道だ。やっぱりカープが最高。生涯かぷ一閃じゃ。きっと今も秋田の何処かでカープを応援している筈のIH君には届かなくとも言いたい。酷いこと言ってごめん。ほんっっっとゴメン。ごぬんw。もしも、あのファミスタの日々がカープファンになる布石だったのなら、君に感謝する。カープファンで良かった。ファンになってから一度も優勝無いけど、黒田も新井も人生の手本だ。カープはサイコーだ。孫悟空も今になってみれば凄い奴だった。そして何より前田が最高だ。どうもありがとう、と。


涙のインタ
お前に言われんでも分かっとる!

今にも落ちて来そうな空の下で



職場の夏期休暇明け定例会の各人スピーチコーナーで、「息子の夏休みの宿題を手伝わされてまして、『坊ちゃん』の読書感想文を私が代わりに書くことになったんですが、難しい文章を読み始めると眩暈がしちゃって、、、・・・あれって名作だから漫画になってたりとかしませんよね?」などとオッサンが喋っている横で俺は、切切とあの名場面を反芻していた。


夏休みはJOJOも含め、色々なものを読みました。